麩の原形は、中国の「麪筋(メンチン)※」であると考えられる。この麪筋という食べ物も、小麦粉を水で練り、デンプンを水で洗い流した弾力性のある粘った物で、タンパク質(グルテン)のかたまりである。(※「麪」は小麦粉を一字で表した漢字であり、「麺」の漢字を使うのは誤りである。) 日本へ麪筋が伝来したのは、南北朝時代または室町時代という見方がある。これは、この時代に編纂された『節用集』などに「麪筋」と思われる文字が見られることから、そのように推測される。当時、多くの日本の仏僧達が中国へ留学しており、麪筋を蒸したものは、肉食禁断の仏僧の貴重なタンパク源であった事から、日本へもこの食文化が伝えられ、精進料理のような日本の食文化に反映されていったと見ることができる。
 

このような事から、伝来したしばらくの間、麪筋は寺院と宮中の中でのみ作られており、社寺が多く、御所のある京都を中心に発展していったようである。当時は、麪筋を大きな釜でゆで上げて食べられていた事が多く、他に煎麩(いりふ)、炙麩(あぶりふ)として用いられていたことが古書籍や古文書から伺う事ができる。寺院と宮中の中でのみ作られていた理由としては、当時の国産小麦の作付け数が少なく、「挽き割小麦」が高価であったためである。そのため、一般には口にする事が出来ず、宮中や僧堂で特別な時にのみ食され、麩は育まれていく事になる。 桃山時代に入ると、「ふのやき」と呼ばれるものが文献にも散見するようになる。この「ふのやき」は麪筋を焼いたもので、当時としては大変珍しい物とされており、料理としてではなく菓子として登場している。天正年間(1573〜1592年)に千利休が催した「天正茶会百席」には、菓子として「ふのやき」が多く供されていることが、当時の「茶会記」に記されている。

そして江戸時代、寺から門外不出であった麩が全国に広まっていく事となる。都が浪花と共に「上方」と呼ばれ、江戸と同様に情報の集積地であった事もあり、地方からの奉公人や見習い、総本山での修行僧が麩の製法をこの地で覚え、各々の郷に持ち帰り、その土地の気候や風土に合わせた製法が地域特色のある麩を作ることになる。 また、江戸時代の食に関する書物の中に「麩」に関する内容が見られる事からも、この時代に麩が庶民一般に広まったのは明らかである。寛政十二年(1800年)には、江戸幕府が西洋の小麦と、その生産法を手に入れ、試産し始め、さらに安政六年(1859年)には開港と共に初めて「精白小麦粉」が日本に輸入される事になる。これまで使用していた挽き割小麦は、色も黒く、水車で石臼を回して小麦を挽いていたため、粒子も粗く、精白小麦粉とは全く別物であった。従って、この時代を境に現代の麩への道が大きく開かれたといえる。 精白小麦粉が使用される明治時代に入ってからは、現在の焼麩が生産されるようになり、「すきやき」や「味噌汁」、「酢の物」などの材料に使用された事や、国内産の精白小麦も多量に生産できるようになった事から、急激に麩の需要は伸び、麩を扱う業者も全国的に増えた。

しかし昭和十六年(1941年)、第二次世界大戦の影響により、日本は食糧難に陥り、食糧管理法によって小麦の供給もなくなったため、麩の業者は休業や廃業を余儀なくされ、業界は停滞を迎える。小麦粉の統制が解除されたのは昭和二十七年(1952年)からである。  戦前、麩の製造業者数は全国で推定1200軒ほどであったが、食生活の洋風化等によって、転業あるいは後継者問題での廃業などの結果、今日では200軒を下回るまで減り、未だ減少傾向が続いている。

 


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